僕は小説が読めない

3月末に、久しぶりにとある賞に小説を応募した。
どうなるかはわからないけれど、まあダメだろうと思っている。
もうずいぶんここは放置しているのでここに何をどこまで書いたか全く忘れてしまったが、まあ有り体に言えば自分は今心の病というやつにかかっている。
果たして本当にそうなのか疑わしいと思ったりもするが、まあ普通の人間ならこういう風にはならないんだろうという状態にちょくちょくなるので、たぶんそうなんだろう。
かかってからはだいぶ長い。一時期働いていたが(それも一般人とは比べものにならないくらい少なくだ)、自分の状態が不安定になったのと人的トラブルとで、辞めることにした。ちょうど小説の締め切りも近く、書くことに集中しようと思ったのもある。
辞めたのは10月末だった。だけれど自分は、全く書かず、狂ったように読んだ。まあ、読書家と呼ばれる人からすれば大した量ではないし、大して深い本でもないのだが、今までの自分ではありえないペースで本を読んだ。貪るように読む、という表現があるとすればこんな感じなんだろうと思うくらいに。
いや、書かないと間に合わないし、と思っていた。当初の予定では、二作品を別の賞に出すつもりだった。自分の今までの執筆ペースを考えればギリギリだ。だけど、書くことができなかった。とにかく読んだ。
結局それは2月まで続いた。もう絶対に間に合わない。そう思った。3月に入り一週間経った頃、買ってあったノートにずっと考えてあった書き出しの部分を書いた。6枚ほど書けた。しかしそこで止まってしまった。
数日して、ずっと、ずっとこの書き出しと決めていたそれを、やめることにした。
新人賞に応募する小説の書き出しは重要だ。自分が出した賞がそうなのかは知らないが、書き出しと結末だけ読んで一次審査の前の予備審査を行なっている賞もあるらしい。
だけれども、自分はずっとこの書き出し、と決めすぎていたせいで、そこの続きがうまくイメージできなくなっていた。
今まで小説を書くときは、ほとんど全部の展開をちゃんと決めて、シーンも決めて、それに従って書いていた。結果が15年近くの一次落ちである。それもあって今回は、何も決めずに書く、ということをしようと思っていた。というかもう、そうせざるを得なかった。
書き出しのシーンは作中絶対にどうせ書かなければならないものだったので、もっと平凡な書き出しにした。まあ、平凡な書き出しが何なのかは実際良く分かっていないけれども。
そうすると、主人公の考えていることが見えてきて、続きがするすると書けた。あ、書けそう、と思った。
予感は正しかった。結局、一週間と少しで小説は完成した。一日に15枚ほど書いた計算になる。驚くべきことに間に合ってしまった。まあ途中、作中の重要なテーマがたまたま読んだ漫画にあっさり答えが書かれていたり、展開に多少詰まったりもあったものの、とにかく小説はできあがった。
作家に必要な素質なんて幾らでもあるだろうけど、たぶんその内重要な一つに、『自分の作品を客観的に見る』ということがあるだろうと思う。特に新人賞を獲るのには多分これが必要不可欠だ。作家になって編集がつけば、編集の人がある程度意見をくれる。だけれど新人賞は誰もそんなことをしてくれない。
そして、恐らく自分にはこの能力が致命的に欠けている。一次落ちの判明した作品を読んでも、なぜ落ちたのか全く分からないのである。つまり、成長できない。
まあなので、逆によく言われる『書いたら少し置いて冷静になる』などの類のアドバイスは自分には無用である。幾ら置いても自分は冷静になれないのだから。
というわけで開き直って締め切りギリギリに小説を出した。ああ良かった、これでまた本でも読もう。そう思った。
そこから、ぱたりと本が読めなくなった。
今までも小説を書いた後、自分の作品と比べたくなくてなんとなく読みたくない、とかはあった。しかし、そんなのの比ではない。小説だけではない。漫画もアニメもダメだ。とにかく、物語を体が受け付けないのである。お腹いっぱいでもう食べられない、という表現が一番分かりやすく近いと思うけれど、なんというか、『そこ』で新しく何かが繰り広げられることが耐えられないのである。本を読みまくった時期に「楽に読める作家」の代表格であった西尾維新の本すらつらくてページを開くことができない。
ただエッセイや評論などはなんとか何冊か読むことができた。本当に、『物語』がダメなのだ。
映画はなんとか何本か見た。だけれどどれを見ても、余り楽しくなかった。これは自分の心の問題なのか映画そのものの出来なのかはわからないけれど。
そんな折母親がつけていたテレビで、うつ病の初期症状として本が読めなくなる、というのが紹介されていた。やっぱり、と思った。
今自分は結局全く読むことができず、図書館で予約した本がようやく回ってきても読めずに返却、というのを繰り返している。
まあここまで長々何が言いたかったかというと、本当に追い詰められている人間は本など読めないのだ、ということだ。んなこと知ってるよと言われそうだけれど、自分は今回身を以てそれを実感した。
苦しくて本が読めないのだが、本が読めないのが苦しい。早くここを脱したいと思いながら、日々悶々と過ごしている。