絲山秋子「沖で待つ」(文學界〇五年九月号)

中村文則さんのインタビューを読むために借りていた文學界を見ていたら、偶然今回の芥川賞作「沖で待つ」が載っていた。ので読みました。
短い!
のは別に良いんです。短いから不足がある、という作品でも無いし、長かったら面白くなるのに、という感じでも無いので。作品のできとしてはかなり高レベルだとは思いますが、うーん、これで、芥川賞なのかぁ、という感じ。何作も候補になっては落とされだったので、『今までの功績に』というパターンなのかな。
僕はそもそも『日常描写系』の文学が余り好きではなくて、なんというか『私たちって何気なく生きてるけど実はそれも幸せだよね』っていうのはすごくメッセージとしては共感できるのですが、それを小説で読まされたとき、僕は逆にすごく虚しくなってしまうのです。
で、この「沖で待つ」ですが、日常描写系に加えて、道具立てが小説からやたらに浮いていると思います。同僚が*****で*****になってしまったりとか、実は主人公に*****があったりとか、他の会社での生活が上手くかけている分、僕にはこういう風にしなくても良かったんじゃないかな、と思いました。無理やり話を良い方向に(もしくは味のある方向に)もっていくために道具をぶち込んだ、みたいな。それが僕はすごく違和感だったのですが、そのおかげで僕はこの作品にいつもなら感じる虚しさを感じないで済んだのかもしれない。でも同僚が*****になってしまう、そういうのはやっぱりいかにもファンタジーで、うーん、それはそれで虚しい、日常系でいくならやっぱり日常の中で解答を(もしくは手がかりを)提示すべきではないのでしょうか。読者はわがままです。
ただ、作者の絲山さんは「また明日仕事を頑張ろうと思う作品を書きたい」と言っていて、これはその目的は達成していると思いました。働くのも悪くないもんだな、と僕は思いましたよ。
男女の友情がテーマで、僕は男女間に友情はあると思う人だったのですが、この作品を読むと逆に「男女間の友情ってほんとにあんのかな」と思ってしまいました。なんでだろ? 友情の描写としてはこの上なく上手くかけているのですが。作品の印象というよりも僕個人の精神的な問題なのかもしれません。
逆に男女間に友情が無い(=下心が必ずつきまとう)と思っている人がこの作品を読んだらどういう印象を受けるかが気になります。

「同期って、不思議だよね」
「え」
「いつ会っても楽しいじゃん」
「俺も楽しいよ」

芥川賞受賞を受けて二月末に単行本が出るようですが、問題はこの短い作品をどう単行本にするかですね。100枚無いんじゃないかな? 書下ろしでもつくのでしょうか。