ライトノベルブームと『ファウスト』の行方

興味深いアドレスがあったので。
http://it.nikkei.co.jp/trend/column/opinion.aspx?i=20051024gc000gc&cp=1
東浩紀さんの文章はあんま読んだことが無かったんだけど、これを読んで『動物化するポストモダン』読んでみようかなと思った。

オタクの欲望がいかに異形で不気味なものなのか、みな忘れてしまったかのようだ。(太字は僕がつけました)

僕は最近既存のライトノベルファウストの間に感じる徹底的な差異は(若干過剰すぎるほどの)『批評性』に起因するものではないかと思っている(これはすっごい今更なのかもしれないけど)。
作風として童貞臭いとか作者萌えとか色々な傾向もあるんだけど、やっぱり僕はファウスト系の作品を他のライトノベルと一緒くたにすることにすごく抵抗がある。そこには決定的な違いがあると思う(これが信者特有の思い込みであったとしても、と僕は思う)。
僕がいう『批評性』というのは若干揶揄も入っていて『語りやすい部分』を意図的に突っ込んでいるという意味でもあるのだけど、その『語りやすい部分=大衆的に理解できる部分』とまた同時に別方向での批評性、『作品そのものが(別の、またはそれそのものの)作品に対して何らかのメッセージになっている』という点も挙げられる。一元的な『批評性』は例えば佐藤友哉の『鏡家サーガ』と『グラース・サーガ』、更に舞城王太郎の『奈津川サーガ』について考えることでもあるし、また西尾維新のあの『過剰なまでのキャラクタ造型』についてでもある。ファウスト系作家の手つきはそれそのものが『過去の遺産』を弄ぶ行為にも近く、それが『批評性』に強く結びついている。何よりも佐藤も西尾も舞城も『本格ミステリ新本格ミステリ』の弄繰り回し方に関しては一級で、その弄繰り回し方が頻繁に批評の対象になる。だが、弄繰り回し方は弄繰り回し方でしか無い。しかし彼らはその弄繰り回す対象に自分たちそのものを含むことで(自分たちを自分の作品の中で批評の対象にする、そしてその自分を批評している自分を他人の批評の対称にする)、その自分たちがとったスタンスに対して問題提起もしているように見える。『ライトノベル、ミステリ、純文学』
さらに、ファウスト系作品が抱いている『批評性』はそのまま『拡散性』にも繋がっている。ファウスト系は自分が影響を受けた作品を結構モロに出すことを躊躇わない。そしてそれをモロにすることによって読者を他の部分へ繋げようとしている、または繋がり合いを濃密にしようとする。他のライトノベルがひたすら特定の作品を読んで育った特定の人たちが特定の感情において楽しめる作品になっていることに対して(別にこれが悪いとはいうつもりは毛頭無いけれど)つまり繋がり合いを徹底的に濃密にしていくのに対して、舞城王太郎村上春樹作品の影響が顕著だし、佐藤友哉は様々な文学作品もアニメ作品も漫画もがっちゃがちゃにパクりまくるし、西尾維新の作品は本格に親しんだ人が読んだらより一層違う感想を得るだろう、それによって読者を広げることができる、普段ライトノベルは読まない人でもファウスト系作家を読むって人は実際にいて、そういう人たちを巻き込んでいるってことがファウストのすごいところだと思っている。で、それに加えてファウスト系の作家の作品はライトノベル特有の特定層への大きすぎる爆発力も持っていると思うのです。その爆風でもって他人を次のステップへ押し上げる力をファウストは持っている、と僕は思う。

僕たちがなぜキャラクターに感情移入するのか、その欲望の異形さを照らし出してくれる作品。萌えやライトノベルがもてはやされているいまだからこそ、萌えやライトノベルとは何なのか、時代に背を向けてじっくりと考えなくてはならない。

で、この意見には僕はすごく賛成で、そういう点において最近のファウストの動向には疑問符なのです。ファウスト系作家の作品は明らかにそういう方向性を秘めているんだけど、でも問題はファウストという雑誌から(方向性を作る雑誌じゃないからかもしれないけれど)そういうパワーを余り感じなくなってしまった、ということです。売れりゃ良い、みたいな、話題とれりゃ良い、みたいな。
作家と雑誌の間に感じる齟齬。西尾さんはファウストの雑誌の傾向に合わせて作品を作っているようにも見えて、そのせいであまり最近では拡散性がなくなってるかも、と思ってしまう。批評性がある作品が優れた作品だなどと言うつもりは無いですが、ただ一次元的なものでないそれはやはり価値があるものだと思います。最近の西尾さんは単なるライトノベルになってませんか?またきみぼくシリーズとかで巻き返してくれることを期待しているのです。佐藤さんの『色シリーズ』はなんであの雑誌であんなに居心地が悪そうだったんでしょうか。コラムに『萌えたっぷりのベタなエンターテイメントを書いてやるよ!』といつもの口調で書かざるを得ない状況が何故来てしまうのでしょうか。
で、僕は先述した視点・期待でファウストを見ているから、『何かをぶっ壊す』作品が読みたくてファウストを読んでいるから、完成度の高いだけの作品は余り求めていない。それが一部に熱狂的に支持を得ても、全くその他の層へのアピールが無い、そういう作品は好きじゃない。ファウストは閉じきっていて鬱屈していてずぶずぶ沈んでいく作品も多いのでそれでもちゃんと他の人に訴えるパワーを持っている雑誌であってほしい。同じ境遇の人でべたべた馴れ合って傷舐めあうだけの雑誌にしてほしくない、なりかけてません? 『異形で不気味な欲望』をもつ人たち同士で頭の撫であいをしてるだけになってません? もしかして最初からそうだったんですかね? 僕が騙されてただけ? 読者がメッキの存在を疑うようになるのはものすごくダメなことですよね、読者にとっても作者にとっても。しかも最近はその『同じ傷を持つ人たち』にさえ届かせようとしているのを諦めてませんか? 『同じ傷を持って同じ趣味を持つ人』に限定してません?
僕たちがずぶずぶしててぐずぐずしててどろどろでぐっちゃぐちゃならそれを『本当にそういう状況があることを知らない人たち』へどうにか訴えなければならないと思うのです。で、僕はやっぱファウストはそれができる雑誌だと信じたい。
うーん、やっぱ上手く書けないな。云いたいことがこれでは多分伝わらないなぁ。
素人の批評もどきほどタチの悪いものは無いですね。まぁ要するにファウスト頑張って、ってことですよ。単なるオタク雑誌にはならないでね☆でも結局佐藤と舞城が載る間は買うと思う(あともっと北山さんに書いてもらうといいよ!)。西尾さんもまぁ好きだけど、最近は微妙だし…。浦賀さんもファウストに載ってるのはちと微妙。
講談社ノベルスの来月の予定も来ないし、どうすりゃ良いんだ!
で、西尾維新ネコソギラジカル(下)』は来月!それでもやっぱり楽しみにしてますよ。風呂敷ちゃんとたたんで欲しいなぁ…。